Juan D’Arienzo (ファン・ダリエンソ)

※この記事は2020年3月25日に更新されました。

引用:Wikipedia

1900年12月14日 – 1976年1月14日(75歳没)

アルゼンチンタンゴのヴァイオリン奏者&指揮者。

「El rey del compás[1]」(リズムの王様)とも呼ばれたほどの人気でした。

激動の時代

1900年にブエノスアイレスのバルバネーラ(barrio)で誕生します。

ダリエンソの父は実業家で、母の家系に音楽関係者が多かったそうです。

8歳の頃からヴァイオリンを習い始め、13歳でプロ生活に入ったといわれています。

20歳代では劇場オーケストラやジャズ・バンドなど演奏。

1928年には独立し、Electraと契約、自身のオルケスタ(楽団)を組織しました。

世界的大不況

1929年には世界大恐慌が起こり、1930年代に入ると、世界的大不況の影響が本格的に表れ始め、タンゴ楽団やミュージシャンが活躍する場が大幅に失われていきます。

同じ時代を生きたマエストロたちもみな苦労していた時代でした。

そんな頃、ダリエンソはタンゴの命とも言われるリズムにこだわり、踊り手のために極端に激しいリズムを刻む演奏スタイルをとりました。

この独特のスタイルは「電撃のリズム」と称賛され、ダリエンソは「El rey del compás」(リズムの王様)という異名をとるようになります。

1936年にピアニストのロドルフォ・ビアジの参加を得て、さらにリズムは鋭く強烈になっていきます。

この頃が、ダリエンソ楽団の第1期黄金期とされています。

ポイント

この頃から映画にも出演していたりとブエノスアイレスのエンタメ業界全体で活躍していきます。

[su_box title=”ダリエンソ出演映画” box_color=”#44a4e5″]・¡Tango! (1933)
・Melodías porteñas (1937)
・Yo quiero ser bataclana (1941)
・El cantor del pueblo (1948)
・La voz de mi ciudad (1953)
・Una ventana al éxito (1966)[/su_box]

1930年代の第1期黄金期のダリエンソの音源はこちら
↓↓↓

孤立

1938年7月にピアニストのビアジが独立のためファン・ポリートに交代します。

しかし、ほどなくして楽団とダリエンソとの不仲が進み、ダリエンソ本人以外の全員あるいはメンバーの一部が脱退し、メンバーの入れ替えが頻繁に行われるようになっていきます。

メンバーとダリエンソ本人との確執は録音にも残されており、ダリエンソが示したテンポをほかの楽団員が次の小節から変えたテイク(1935年11月18日8作目Sábado Inglés)も存在しています。

記録的な売り上げ~タンゴの王へ

一触即発を経てほどなく、ダリエンソ以外のメンバー全員が脱退しました。

なんと、エクトル・バレラ楽団をまるまるダリエンソ楽団に衣替えするという珍事件も発生しています。

その後、新たに当時19歳のフルビオ・サラマンカを迎えて1940年4月から再出発します。

1940年代からの音源はこちら
↓↓↓

この時エクトル・バレラを第一バンドネオン奏者に引き抜きます。

1930年代の録音よりもバンドネオンがソロで短いイントロから入ります。

ダリエンソの信頼を伺わせる一面でした。

そのため、第一から第五のうち第一は高音しか弾かないことになってしまい、バレラは「片手弾きさん」というニックネームがついてしまいます。

これを象徴するテイクに1940年11月21日録音131作目Canaro en Parisがあります。
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サラマンカが定着した1950年代初頭が、ダリエンソ楽団の第2期黄金期とされています。

1957年、サラマンカの独立により、再び第1期黄金期のファン・ポリートがピアニストとして復帰。

サラマンカが抜けるあたりの音源はこちらから
↓↓↓

復帰したファン・ポリート は楽団の最期まで付き添いました。

ダリエンソ楽団の人気は相変わらずで、レコードも飛ぶように売れていきました。

1951年9月12日の「ラ・クンパルシータ」はDJ Balázsが「アルゼンチン・タンゴ全史の極めつけの一曲」として讃えたほどダリエンソ・スタイルの頂点に位置する傑作中の傑作テイクと言われています。

公式統計ではありませんが、この時期までにダリエンソ楽団は全世界でSPとLPを合わせて1000万枚のディスクを売ったとも言われており、まさにタンゴの王として君臨しました。

Check

こちらはPinocoa制作の「ラ・クンパルシータ」。

2018年の大阪公演での様子です。

ダリエンソ不在の日本公演

1968年には、ダリエンソ楽団日本公演を行いました。

しかし、飛行機嫌いだった指揮者ダリエンソ自身は来日しようとせず、船舶も拒否・・・

ファン・ポリートを含むメンバーだけの来日公演となりました。

公演自体はスタジオ録音と寸分違わぬ密度の高いものであり、聴衆を満足させました。

memo

こちらのアルバムがちょうど1968年リリースなので、サウンド的にはちょうどこの頃だと思われます。

ダリエンソ奏法

ダリエンソは当時のアルゼンチン人としては珍しく、音の間違いや読譜ミスを徹底的に嫌うタイプでした。

独特の演奏方法で、フォルティッシモのスタッカートからいきなりピアニッシモに行くときなどに、音をかすかに残す楽団が多い中、ダリエンソはまったく音を聴かせませんでした。

まったく演奏せず、音が存在していないにもかかわらず、まるでリズムを刻んでいるような感覚になるので、「音無しのリズム」と呼ばれています。

流れを見ると、気難しい人物にも見えますが、エンターテインメント性はさすが世界で1000万枚を売り上げただけありますね!