Nicolás Ledesma (ニコラス・レデスマ)


※この記事は2020年4月1日に更新されました。

ニコラス・レデスマ Nicolás Ledesma ピアニスト、作曲家 (1965年6月14日生まれ)

実はニコラスレデスマは私のお師匠さんなのです!!

にゃにゃにゃにゃんと!それはそれはすごい情報が期待できるにゃ!

生い立ち

ラ・パンパ州出身。

その州からは、プリアン・プラサ、チャルロも生まれており、現在も活躍しています。

ニコラスは、そのラ・パンパ州の2番目の都市ヘネラル・ピコ出身。

首都のサンタローザから125 km、ブエノスアイレス市から571kmに位置します。

彼の子供時代は、音楽に精通していた父の影響でいつも音楽が身近にありました。

鉄道労働者であった彼はピアノ調律師としても活躍していました。

その仕事にいつも小さなニコラスを連れて行っていました。

早くからピアノの調律現場に立ち会えるのは幸せラマね~

また、父はバンドネオン奏者でもあり、ニコラスの最初の音楽教師でした。

父と息子はバンドネオンとギター(ニコラスが最初に手にした楽器)でデュオを結成、当時は民族音楽(フォルクローレ)を好んで演奏していました。

のちに、その街の音楽教師、エルベルト・ベヌッツィにピアノを学び始めます。

エルベルト・ベヌッツィは、ヘネラル・ピコのアルベルト・ペリサリが率いるオーケストラのピアニストでした。

1979年4月14日、そのオーケストラに先生の代役としてわずか14歳でプロデビューすることになります。

1976年からは軍事クーデターで軍事政権になっていたラマ~

確か前年の1978年にはアルゼンチンで開催されたサッカーワールドカップでアルゼンチンが初優勝した年にゃ!

彼は18歳までヘネラル・ピコのオーケストラで活躍します。

その間、ブエノスアイレスに定住するまでの間、オラシオ・サルガンのレッスンを受けるために、半月に1度、首都とヘネラル・ピコを往復24時間かけて通い続けました。

→Googleマップでのルート(現在の電車でも片道8時間以上)

にゃんと!おしのちゃんはオラシオ・サルガンの孫弟子だったにゃ!

オラシオ・サルガンについてはこちら

実はこのレッスンについて、面白いエピソードがあります・・・

ニコラス・レデスマは当時、ブエノスアイレスで活躍するオラシオ・サルガンのレッスンを受けるため、手紙を書いていました。

しかし、一向に返事はなく・・・

オラシオ・サルガンがニコラス・レデスマの故郷ラ・パンパ州にてコンサートをする際に、初めて出会います。

ニコラス・レデスマ「あの、すいません、僕が手紙を書いたニコラスです。レッスンをしていただきたいのですが・・・」

オラシオ・サルガン「あーーー、そうだったね!わかったわかった!今度日程なんかの返事を書くからね!」

その後・・・一向に返事をもらえなかったそうです。

もう待ってられないニコラス・レデスマはブエノスアイレスまで押しかけてようやく弟子入りすることになります。

実はこれ、私も同じ体験を・・・日本から何度メールを出しても返事をもらえなかったため、もう待てないとダメ元でブエノスアイレスまで押しかけてみると・・・あっさりレッスンを受けることができました。こういうところもしっかり師匠から受け継いでいるんですね!

絶対に諦めない気持ち、忘れられても押しかける図々しさがプロになるためには必要だにゃ!

その後ニコラス・レデスマはブエノスアイレスにて生活を始め、下宿生活を開始。

勉強の為の費用捻出(レッスン代)と、生活が維持できるよう、父親から受け継がれたピアノ調律師の仕事に専念し生計を立てていました。

一流への道

その後、ダニエル・ロムトの編曲作品を演奏していたグループグループに参加します。

その仕事でアパートを借りる事ができ、ピアノ調律の仕事の収入も合わさって、彼の独自のプロジェクトに集中することができるようになります。

テレビ局や、様々なタンゴの現場でピアノ調律をすることが、彼とタンゴ界の人脈を築く礎となりました。

そんな中で、若者を中心に構成された大編成グループを持っていたロベルト・シリと出会います。

そのグループに所属していたバンドネオン奏者のジルベルト・ペレイラが独立。

新しいグループを結成させそこに参加します。

名前は彼らを後援した「セクスセート・マジョール」と対照的な「セクステート・メノール」としました。

彼らは、セクステト・スールというグループに変更になるまでの1990年まで続き、さまざまな会場で演奏していきます。

その頃、Ledesmaはすでにグループの編曲者としても活躍していた。 彼らは「Caño14」でも演奏し、カナダとブラジルへの演奏旅行を行っています。

にゃんと、1985年当時の貴重な新聞のきり切り抜きが残っているにゃ!

この頃は、毎日ショーやコンサートが行われており、タンゴが最高潮に盛り上がっていた時代でした。

この一面にはセクステート・メノールの名前が2箇所もあり、当時かなり活躍していたことが伺えます。

この貴重な新聞の切り抜き資料を私の誕生日に贈ってくださいました!!

その後1990年、ワルター・リオス(バンドネオン奏者)によって、バランカス地区の「Tango Mío (タンゴ・ミオ)」で演奏を行なっていたワルター4重奏に招かれます。

1992年、サンマルティン・オーケストラの指揮をしていたパスクアル・マモネに招待され、そのオーケストラと共演。

その2年の間も、オラシオ・サルガンのレッスンは続けていたそうです。

また、「マモロ・フアレス」、「ギジェルモ・イスクラ」、「フアン・カルロス・シリグリアーノ」にも師事しています。

1992年の9月、レオポルド・フェデリコが自身のオーケストラのメンバーとして招き入れる。

フェデリコとは、彼が亡くなる2014年の最後まで共に演奏することとなる。

ニコラスレデスマの作品

フェデリコのピアニストとして活躍していた同時期に、彼は様々なグループにも参加しています。

フェルナンド・スアレス・パス5重奏
フリオ・パネ 3重奏
ワルター・リオス 4重奏
ダニエル・ピアソラ 8重奏
ブエノスアイレス タンゴオーケストラ
フアン・デ・ディオる・フィリベルト国立アルゼンチン音楽オーケストラ
サン・マルティン タンゴオーケストラ
カフェ・デ・ロス・マエストロス オーケストラ

などなど・・・

彼はまた、さまざまなイベントで素晴らしい他ジャンルのミュージシャンと一緒に共演しています。

ビブラフォンプレーヤーのゲイリー・バートン
チェロ奏者のヨーヨーマ
指揮者のダニエルバレンボイム

彼は世界中のタンゴの代表的存在であり、さまざまなグループと、さまざまな国に演奏旅行を行っており、日本にも7回演奏に来日しています。

満を持して独自のグループを結成

2003年に彼自身のグループも結成する。

レデスマの編曲と彼の作品をレパートリーとして、2008年に「Meridiano Buenos Aires」をリリースしています。

また彼は作曲家としても活躍しており、以下の曲が代表曲となっています。

“De tango somos” (Leopoldo Federico に捧ぐ)

“Milonguero de siempre”
“Sueño de tango”
“Ruta siete”
↓↓↓こちらに収録↓↓↓

“Fueye amigo”
“Oiga pibe” (カルロス・ガルシアに捧ぐ)
“A toda orquesta” (レオポルド・フェデリコと合作)
“Betitta” (母に捧ぐ)
↓↓↓こちらのアルバムに収録↓↓↓

他にも・・・

“El Marquetín” (ミゲル・カンティロと合作)
“La revolcada”.
“Dime” (マリア・ビビアナと合作)
“Voy a buena” (フェルナンド・スアレス・パスに捧ぐ)
“Luchar y existir” (スサナ・リナルディと合作)
“Betitta” (母に捧ぐ)

が有名です。

Betittaは私のピアノソロアルバムでもカバーさせてもらっていますので、是非聴いてみてください!

ニコラスレデスマの作品まとめ

Sueño de tango (ピアノソロ 2001年)

2001年といえば、アルゼンチンがデフォルトした年だにゃ!

De tango somos(4重奏 2004年)

Meridiano Buenos Aires (2008年 自身のオーケストラ)

Cuando llora la milonga ( 2015年 自身のオーケストラ)

彼は後進の教育活動にも力を入れており、マヌエル・デ・ファリャ音楽院(タンゴ、フォルクローレ学科)の教師でもあります。

また、AADI(アルゼンチン演奏家協会)の副書記も務めています。

ちなみに総書記はオラシオ・マルビチーノ氏ラマね~

2人は仲良しでオラシオ・マルビチーノはニコラスレデスマに二コラセアンドという曲を送っています!

おしのちゃんの師匠というだけあって、さすがの情報量にゃ!

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